よつばつうしん
2011年7月号(NO.004)

東日本大震災支援活動
石巻・高橋徳治商店はじめ被災生産者への支援をおこなって

 3月11日の東日本大震災発生以降、地震と大津波、そして原発事故がもたらした悲惨な状況に心を痛めながら、「私たちにできることは何か」を問いながら行動を起こしてきました。まずよつ葉に関連する生産者の安否情報を集め、たくさんの生産者の皆さんから支援物資と更に生産者・会員の皆さんから義援金を募り、そして3月25日以降は直接職員有志が現地を訪問して物資搬入し、それだけでなくがれき撤去、片づけ等の活動、4月下旬以降は石巻の高橋徳治商店でのヘドロ除去活動など、様々な被災地の生産者支援、再建・営業再開を応援する活動を続けてきました。現地での支援活動は、合計10波に及び、よつ葉の職員をはじめ延べ55名が参加しました。
 よつ葉とお付き合いのある生産者の中で、とりわけ大きな被害に見舞われたのは、町そのものが壊滅的な被害にあった陸前高田の八木澤商店(醤油、タレ類)、工場だけでなく周辺のわかめが流され今年の収穫をあきらめなければならなくなった釜石のリアス海藻店(わかめ)、工場内に重油混じりのヘドロが大量に流れ込んだ石巻の高橋徳治商店(練り物、水産加工品)とパプアニューギニア海産(エビ)、そして地震により築200年の蔵がいくつも倒壊などした福島県西白河の大木代吉本店(料理酒「蔵の素」)などです。
 当初は、陸前高田の八木澤商店への物資搬入を軸に取り組みました。幸い同社は、従業員全員を解雇せずに再建に取り組み、5月2日には暫定的な態勢ながら営業再開し、『ライフ』でも8月(310号)から醤油と味噌、ポン酢を販売再開できるまでになりました。
 私たちが被災地の状況を少しずつ知る中で、石巻の高橋徳治商店がより困難な状況におかれていると感じました。工場の建屋自体は持ちこたえたものの、工場内に重油混じりの大量のヘドロが流れ込んでいました。「私たちにできることを精一杯やろう」と、このヘドロの除去作業に集中して取り組むこととしました。
 暗闇に近い工場内での作業は約2カ月に及びましたが、ヘドロがほぼ完全に除去・洗浄され、本来の工場の床の緑色の塗装が見えた時には正直感動しました。また協同で作業にあたった、茨城の常総生協や岩手・青森などの生活クラブ生協の職員・組合員さんとの出会い、交流もありました。
 そして何より、この作業をする中で高橋徳治商店の再建・再開の方向性がある程度具体化してきて、秋にはこの清掃した現工場で一部商品の製造・出荷を再開、1年後には郊外の新たな土地に新工場を建設・稼働する方向だそうです。作業が進んでいく中で、最初はほとんど見かけなかった職員の皆さんも少しずつ出てこられて機械を点検に出す準備をしたり、残った書類を整理したりと、再建に向けて動き出したなと実感することができました。この約2カ月間、多くの人たちと協同しながらやってきて良かったなと思えた瞬間でした。(ひこばえ 福井浩)


高橋徳治商店の元職員とよつ葉からの支援のみなさん

自分の頭で考え行動を

 石巻の高橋徳治商店へ、ヘドロの掻き出し、清掃作業に行ってきました。
 私が工場に通ったのは3日間だけでしたが、1日目は作業する総勢多く、手際も(?)良かったのかしら。間をおかずの掻き出し、掃き出し作業で個人的にも完全燃焼に近かったですよ。
 くったくなく話される社長さんはタフな方でしたが、大きな声ではなしにポツポツとストレートに語られていました。漁港は早期に漁を再開する方向に向かっていること。風評被害などと云われているが、実害被害があらわれたときは既に遅いこと。このヘドロは、北上川の上流、岩手の方からも全ての有害物質を呑み込んで流れてきていること…。
 ご自分は泣かない方だが、震災後二度泣いたと話されました。工場横の自宅の後片付け中、祖父母のものをガレキの中から見つけた時、そして数日前の新聞記事の中で病院施設の5階に高齢の患者さんらをスタッフが背負い避難されたという記事を見た時。何故泣いてしまったのか、自分自身でそこの所を考えなくてはならない―と話され、この大事で自分は「変われーっ」と突きつけられているんだろうと。こんな事でもないと変われないんだろうとつぶやかれていました。
 あなたたちに伝えて欲しいことは―と、ここで普通に生活している人々がいること、経済もあること。そして被災地や被災者のことを想うだけではなく(想うのであれば)、支援金・支援を集めるのは必要だが、それよりこの被災(望んでこうなったのではない)のこと―原発から地震から津波から―を自分の事として、先を生きる人々の事として考え行動して欲しい。そんなふうに語られたと私は受け止めています。
 人は集まることでより強くなれますが、一人ひとりが自らの頭で身体で考え、五感で感じ、吸収し行動する、そのような個人個人でありたい思います。問われているのは各人の生存の意味であり、生き様なのだと思います。それは多くのこの世界に生きる人々が感じている事だろうと思います。(京滋会員 柴田規代)

復興の中味こそが問題

 「自分に何ができるのか?」、「変わらずここで生活をしている罪悪感がある」、「気持ちが沈むからテレビ・ニュースを見ていない」そんな言葉をよく耳にしました。きっと同じような気持ちを抱いている人はたくさんいると思います。私もその中の一人でした。ここで自分のできることをするんだと思って日常を大切にまた、一生懸命生きてきました。今自分にできることはそれぐらいだと。今回現地行ってその気持ちがより強くなりました。行ったからといって、急に何かができるわけではありません。本当に気の遠くなるような地道な作業のほんの一部を担うことぐらいしかできませんでした。ただ、私は遠く離れた地でするべきことがあると強く思いました。与えられた仕事・役割を一生懸命生きることで、それを続けていくことで、誰かとかかわりを共有し、未来に向かうことができるのだと思います。
 高橋さんの日記の中に「残された人々はまた震災前のように同じ過ちをおかそうとしていないか…あんな生き方でまた生きるんですか、それが生かされた貴方なんですか?」と書かれてありました。胸にしみました。軽々しく口にできることではありませんが、今の生き方を見直すためにこの震災は起きたのではないかと思います。生活、電気、食料、人とのつながり…私たちは、ある意味強い生き物です。たくさんの方の力、支えできっと東北は復興すると思います。しかし、必要なのはただ復興するということではないように思います。大事なのは私たちがどのような生活・生き方をしていくかで、それを考えずして、目先の問題だけを取り組むことはできません。私たちが今までのような暮らしを続ける限り遅かれ早かれ、形を変えて出てきた問題だろうと思います。
 たくさんの出会いがありました。このような形で出会い、お話し、時間を共有できたことは、それ自体に大きな意味があるのだと思います。このような機会を与えていただいたよつ葉さんに感謝しております。(社会福祉法人オリーブの会 勇川昌史)