前景化するケアの論理~withコロナの時代の生き方を考える
私たちはこれから、新型コロナウイルスとともにどう生きていけばよいのでしょうか。今回のパンデミックでは、医療や看護、介護といったケアワークに注目が集まりました。なかでも保健所を含む地域でのケアは近年、経済効率の名の下に予算や人員を減らされてきた分野ですが、こうした部分の関係性が日常のなかで耕されていることの重要性が認識されたと思います。
例えば、医療崩壊を起こし多数の死者を出したロンバルディア州は、パンデミックまでは世界屈指の医療先進地域でした。公的医療を基本とするイタリアのなかで同州は独自に民営化を導入し、高度専門医療拠点を構築していました。しかし、収益率と生産性の高い部門に予算が集中した結果、家庭医を中心とする地域でのケアの空洞化が進み、そこにパンデミックが到来すると、世界最高水準を誇っていた医療は瞬く間に瓦解した。パンデミックは生産性の観点からは無駄に見えるような冗長性や遊びが、危機においていかに重要であるかを認識させることになったのです。
これはケアワークにとどまる問題ではなく、パンデミック下に世界各地で見られた市井の人々による助け合いのように、日常生活における社会関係の問題として考える必要があります。なぜならケアとは職務や役割ではなく、相互扶助的な関係性だからです。ケアにもとづく相互関係性は、近代化とともに専門職によるサービスの与え手と受け手という非対称な関係に置き換えられていったために、ケアというと私たちはケアワークを思い浮かべてしまうのです。
しかしケアに関わる仕事/生産に関わる仕事という二分法で考えること自体が誤りのもとです。農作物をつくることは生産ですが、植物や土や水をケアしてもいる。橋をつくるとき、橋を生産するためには、周囲に住む人のニーズ、周辺の地形や水の流れをケアすることが不可欠です。このようにケアとは、仕事や行為のカテゴリーではなく、関係性のあり方や行為のスタイルだと言えます。けれども多くの仕事に含まれているこうしたケアの側面は、生産という男性的で可視的な価値の後景で不可視化されてきたわけです。
●「選択の論理」と「ケアの論理」
それを可視化するため、人類学者のモルは行為のロジックとして「ケアの論理」を「選択の論理」と対比させました。私たちの行為には複数の論理が混在していますが、近代において重視され、今やあらゆる場面で一般化しているのが選択の論理です。これは本人による選択を何よりも重視するもので、自由という価値と深く関わっています。なぜなら、選択肢が複数あることによって自分で選びとることが可能になり、それは選択肢がない状態よりも自由だと言えるからです。近代以前の社会では、職業選択に関して、基本的に農民の子は農民、商人の子は商人であり、選択肢はほとんどありませんでした。それが近代になると社会的アイデンティティは「誰であるか」、つまり本人が変えることのできない出自や属性ではなく、「何をするか」、努力次第で変えることのできるものによって決まるようになります。もちろん現在でも性別や国籍など属性による差別がありますが、たとえそこに平等が実現したとしても、今度は「したこと」や「できること」によって評価されることになる。これが「能力主義」や「業績主義」と訳されるメリトクラシーです。
メリトクラシーには正負両面があり、前者は機会の平等として実現されます。けれどもそれは同時に、能力や業績による新たなヒエラルキーや支配を正当化する。出発点を同じにすることで、結果については本人の責任に帰されることになるため、機会の平等が実現されるほど、結果の不平等が放置されてしまうのです。とりわけ新自由主義的な論理が導入されて以降、結果の格差はますます自己責任化されるようになりました。そこでは主体は孤独に選択し、結果はすべて一人で引き受けなければならない。個人の自由を主張する選択の論理には、このように結果の不平等を正当化し、放置とネグレクトに反転する論理が内在しています。
こうした選択の論理に対してケアの論理は、何が最善の選択肢なのか分からないような状況において、相互扶助的な関係性のなかで集合的により善き生を模索する際に不可欠な行為のスタイルです。それは健康で理性的な主体から出発するのではなく、生と身体の脆さとコントロール不可能性に立脚します。そこからは近代をかたちづくってきた個人の自由や生産を重視するのとは異なる社会が構想されることになります。
●人間以外の生命を含む地球環境システムへ
もちろんケアの論理が選択の論理よりも常によいというわけではないし、ケアの論理を全面化すればいいというのでもありません。ケアは誰が、何のために行うかによって、生の助けとなることもあれば抑圧的に働くこともあります。これには、子供へのケアがともすれば抑圧になるといった身近なものから、セルフケアのため健康的だとされる食物を食べることが、その食物生産のために地球の裏側で現地の人々の伝統的な生業が破壊されることにつながるといったものまで、さまざまな次元と広がりがあります。
しかし、選択の論理が自分たちがなしたことを可能にした前提とその帰結を狭い範囲でしか考慮せず、したがって分配における格差が当然視するのに対し、ケアの論理では、関係し絡み合うすべてを考慮に入れることになります。そうすると、「NCP(自然の人間に対する寄与)」やコモンを含んだかたちで分配を考え直さざるをえないし、人間と社会のケアにとどまらず、人間以外の生命を含む地球環境システムのケアを無視することはできなくなります。
新型コロナウイルスはそれを排除すれば従来のノーマルに戻ることができるような一時的な危機をもたらしているのではなく、逆に現行のシステムが生み出す構造的かつ恒常的な危機の中に私たちがあることを知らせるメッセンジャーだと考えるべきです。そして、現行のシステムの根本の論理が変わらないかぎり、部分的にいかに修正しても、また新たなメッセンジャーが、別のウイルスや災害のかたちで到来することになるのです。新型コロナウイルスとともに生きるというのは、私たちの生が何によって成り立っているのかを考え、生と行為の論理を転換させていくことなのだと思います。
よつ葉の福祉(上野デイハウスしもつき)
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