被災地の「灯りっこ」となって
高橋徳治商店 高橋英雄
早いものであの東日本大震災から10年を迎えます。
10mを超える津波で3つの工場、79名のスタッフの自宅が全壊。900坪近い工場に流れ込んだヘドロやドロドロの機械掃除。思いもかけないよつ葉の皆さんのご支援。毎日ドロまみれで頑張っていた姿を忘れることはないでしょう。震災直後から夏の初めまで長期間、どんなに勇気と心の温かさをもらったか。何度となくくじけそうになった私たちが再開でき、今ここにいるのは奇跡ではなく皆さんの多くの心が私たちを救い出し、それがあって「共にここに」いるんだなぁって。震災後は新工場を再建。借り入れ金は多く、売り上げも戻っていませんが、1905年から水産一筋の当社が3年前には野菜加工場を作って、当地の引きこもりの若者たちと不慣れな野菜加工で頑張ってきました。なぜ野菜か? それは手作業なので就労訓練になるから。そしてスタッフとこの地に灯りをともしたいからです。皆さんの支援で私たちは元気や笑顔をもらい、私たちが笑顔になると皆さんもそれ以上にまた元気になったあの体験です。引きこもりの若者たちが笑うと被災したスタッフたちは我がことのように喜び、元気がないと心配しています。元気は行き来するのです。
若者たちが話し始めた過去は凄惨なものでした…児童虐待、DV、ネグレクト、貧困による格差や差別、いじめ、不登校。家族や世間から存在価値がないと言われ、自己否定し言葉も失い、精神疾患も出ていました。「早く正確に」よりも「楽しくラクに、面白く」をモット-に、レモンをカットし冷凍し、今日もツカレタ~って帰る。過去も現在もいろいろあるけれど、心だけは無くさずここを居場所にする。居場所はひとりひとりが主体になり初めて作れるんだよと話しています。正直大変で、迷いながら考える日々。
その反面、就労支援ではなく、私たちが元気と笑顔・学びをもらってるんです。若者たちが灯りっこ(小さな灯り)になり、その灯りが周りに拡がっています。人の痛みを我がことのように感じる思いやりとほっこり笑顔を忘れず。
苦難の時代で日々悩み、落ち込んでヨロヨロになっても、少しでも進むことができれば、クシャクシャの笑顔で自ら灯りっこになる。被災地に灯りっこがたくさんともり、若者たちから教えられた高橋徳治商店も灯りだらけ(笑)ここから勇気と元気が始まります。私たちがどう生きるかが彼らの鏡となるように。そして支援をいただいたときのように、こころある人がつながる、つながることで支えあえるように。
震災から10年、宮城県石巻より。
高橋徳治商店スタッフの皆さん
「核のごみ」最終処分場反対!
カネキ南波商店 南波 久
2885人の人口。この小さな港町が全国的に有名になってしまった。寿(ことぶき)の都(みやこ)と書いて「寿都町(すっつちょう)」。きれいな町名なのに…日本中の人たちが羨むようなことで有名になってほしかった。日本で初めて核のごみ文献調査を実施する町として有名になるとは思いもよらず、悲しみと怒りで言葉を失う日々です。現在は原子力発電環境整備機構(NUMO)のスタッフ数名が町を出入りし、各町内の会長宅を挨拶回りしながら、説明という名の洗脳をはじめています。
私たち「子供たちに核のゴミのない寿都を!町民の会」では、小泉純一郎元首相などの講演会の実施他、片岡春雄町長、町議会に対して、住民投票条例の制定、議会議事録の公開請求、核抜き条例の制定を求める活動をしてきましたが、すべて理由なき否決という残念な結果を受け、いまだに文献調査を止めることはできていません。
また、1月24日付北海道新聞の「原発の課題、住民が質疑」という記事の中に、「寿都町の片岡町長は対話の場について住民約20人で構成し、一部は公募するとしていたが、町は産業団体や各地区の代表者で定員が埋まったとし、公募を取りやめた」と載っていました。この内容には3点の問題があります。
①町長自ら公募すると言っていたが、前言を撤回して公募をやめる…応募して、NUMOとの対話の場で直接意見を言いたいと考えていた町民はどうしたらいいのか。「北海道知事の言うことは聞かないが、町民の言うことは聞く」も撤回、「町民の51%が反対したら文献調査に応募しない」も撤回。責任ある町長の立場にある者が撤回を繰り返す醜態。
②公募しないのなら、役場が都合のいい人を人選し「対話しました」「反対派の人も選んで意見を聞きました」というアリバイ作りにも利用できます。まして、これが非公開となったら町民の見えないところで勝手に議論、そして概要調査の受け入れが進んでしまうことも危惧されます。
③公募取りやめについて、私たちが新聞で知ったことです。町民の会が出した公開質問状に対して「構成員や会議の設計については、現在検討中。詳細が決まり次第、広く町民にお知らせする」と回答していたにもかかわらず、町の大事なことが新聞に載って、はじめて町民が知るということが続いています。
これが現在の寿都町です。片岡町長が決断し、イエスマンの議員たちがそれを許す。情報を公開し、町民の意見を聞くことは民主主義のもとでは当たり前のことです。寿都町の行政は、その当たり前のことができていません。誰のための町なのか…まるで国士気取りの町長の夢を実現させるために寿都町があるわけではありません。私たちは声を上げ続けていきます。あきらめないで、がっかりしないで根気よく。町を変えるために。原発のない国へ。
寿都の漁港
「ゴキブリのいない街」から
タニサケ
岐阜県揖斐郡:ゴキブリキャップなど
岐阜県の南西部に位置する池田山の麓、池田町にタニサケはございます。35年前、町をあげて「ゴキブリ追放宣言」として取り組み、「ゴキブリのいない街」と称されるまでに有名になり、それを支援してきたのが、現在のタニサケです。
当時、発明者で社名の由来にもなっている谷酒茂雄は、世の中からゴキブリをなくしたいという思いから、10年にもわたり研究を積み重ねて「ゴキブリだんご」を考案。作り方を一般公開し、全国の婦人会を中心に普及活動を行ってきました。
彼の発明に当時池田町で食品スーパーを経営していた現会長は、その思いに共感し、積極的に「ゴキブリだんご」の普及に努めました。この普及活動が、テレビで取り上げられたり、雑誌掲載されたことにより、各地で幅広く知られるようになります。そして多くの人から「手づくりするのはなかなか手間がかかるので、ぜひ製品化してほしい」との声を受けたのがきっかけとなり、タニサケが設立されました。
「ゴキブリキャップ」は、発売から非常にたくさんの方にご愛顧いただき、35年が経過した現在も年間1600万個を製造。使用している原材料は、ホウ酸や玉ねぎ、小麦粉など100%天然成分。環境を考えた製品づくりは発売当初より引き継がれております。
また、ゴキブリが安らかに眠りにつくことができるように、タニサケ敷地内には「鎮魂碑」として、供養するための碑があります。毎年、6月4日(虫の日)には神主様に祝詞をあげていただき、虫供養祭も開催しております。
製造工場では、社員のアイデアを積極的に反映する改善提案を積極的に取り入れ、それによってモチベーションが向上し作業効率も上がっていく、別名「知恵工場」と呼ばれております。まさしく、社員の知恵が結晶となっており、経営理念にもある、「社員中心主義」の象徴となっております。
また、1カ月に一度、周辺の地域の清掃活動を全社員で実施。地域に根付いた企業であり続けたいという思いで取り組んでおります。
(細尾和弘)
地域とつながる清掃活動
10年先の米づくりに備えて
別院協同農場
京都府亀岡市:摂丹百姓つなぎの会の地場野菜
京都府亀岡市の東別院町で、私たち別院協同農場は20軒の農家がお米部会を立ち上げ、澄んだ水と寒暖差のある自然豊かな里山で「安全で安心して食べてもらえるおいしいお米を会員さんへ」を合言葉に、「地場キヌヒカリ」の栽培に取り組んでいます。
昨年5月の田植えの頃は気候もよく、苗も順調に育ちました。7月に入り長雨で日照不足が心配でしたが、8月に入ってからは晴天が続き稲は順調に育ちました。その間、小まめな水管理や除草作業を行い、毎年すべての田んぼを生産者とよつば農産の職員と一緒に生育状況を見回り、より品質を上げる意見交換をしています。その甲斐もあって、品質の良い自慢のお米を9月に収穫することができました。
農家が集まれば、よく話題になるのは、栽培技術の事はもちろんですが、後継者問題です。私たちお米部会のメンバーは、70歳代が中心で、米づくりに生きがいを持ち元気に頑張っていますが、5年・10年先を考えた時に待ったなしの状況です。都市部で働くために地域を離れたり、高齢化により米づくりが困難な農家が増えてきています。耕作放棄地を増やさないために、地域での協同作業など、個人では解決ができない問題に地域ぐるみの取り組みが大切です。
会員さんへ地場米をお届けする取り組みの輪が、ますます広がるように励みます。
(梶原 隆)
別院協同農場の皆さん(2列目左が梶原さん)
吉田農園の世代交代
ティーダ有機(吉田農園)
沖縄県南城市:ピーマン
沖縄本島南部に位置する南城市は、青く広がる海と草花に囲まれた街です。ハートの形をしたこの地域は、豊かな自然を満喫できる癒しのスポットになっております。絶景のドライブスポットとして知られるニライカナイ橋や、世界遺産の斎場御嶽、神の島と呼ばれる久高島、人気観光施設のおきなわワールドなどがあり、最近はおしゃれなカフェなどで賑わっていましたが、コロナの影響で今は休業や閉店する店舗が増え、寂しい状況です。
吉田農園の圃場は沖縄本島の南城市佐敷、ハートの形右上にあります。約600坪の簡易型ビニールハウスで吉田永進さん・元勝さんの親子2人で約40年間ピーマン一筋、作り続けております。
息子の元勝さんが本格的に農業を開始したのは10年前で、これまでは父・永進さんの指導を受けながらピーマン栽培に挑んでいましたが、昨年、永進さんが引退されました。
元勝さん曰く、「農業を始めて、そして父が引退して自分一人になってみるとピーマンの栽培がいかに大変かを、改めて痛感しています。毎年変わる天候不順への対応、虫の大量発生時の対応など、いろいろな判断と対策が必要になります。父のこだわりであった土づくりを大切にしながら、父からの教えをさらに発展させ、今後も吉田農園のピーマン栽培が継続できるよう頑張ってまいります」。
父・永進さんですが、引退したと言っても、ほぼ毎日圃場に来ているようです。親心でいつまでも気になるんでしょうね。これからも吉田農園ピーマンの応援をよろしくお願いします。
(ティーダ有機・高橋正弥)
吉田元勝さん
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