パンデミックを生きる知性
藤原辰史 (京都大学人文科学研究所)
●勉強せよ
こんな日のために、私たちは勉強してきたのだ。
国語では、心が折れそうなときに自分と自分の愛する人たちを落ち着かせる日本語の表現力を学んできた。数学では、自分の行動を見極めるための論理展開の方法を学んだ。理科では、呼吸器・循環器や免疫の仕組み学んだ。外国語は、いまや他国の新型コロナウイルスの状況を知り、他国と日本の違いを知り、日本の異常さを知るために必須のアイテムだ。社会では危機的な状況下で憲法がどういう役割を果たし、司法行政立法がどのように機能すべきか、そして、危機に対応できない首長をリコールしたり、請願をしたりする方法さえ学んだ。
学校にいけない子どもたちにとって、この時期を生き、考えたことはそれだけですでに一冊の教科書に匹敵するほどの勉強である。
そして、かつての子どもだった私たちは、ついに勉強の成果を試すときがきたのだ。
●問題を把握せよ
ただし、学校卒業後の勉強には、もうひとつ作業を加えなければならない。それは問題の設定だ。もう先生はいない。自分で課題のありかを考えねばならない。ここを掴み損ねると、勉強ができない。些細な情報に足を取られて、情報の洪水に流されてしまう。もちろん、PCR検査の量が少ないとか、非常事態宣言の期限とか、秋入学制度の導入とか、論点は尽きない。それぞれ大事だが、個々の問題を考える大きな問題設定を各自で立てなければならない。私はここで問題を提示しようとは思わない。それは結局学校と同じだから。いま必要なのは、政治リーダーや知識人の大きな発言ではなく、個人個人の独立不羈の思考であり、その集合であり、化合である。個々の思考と行動を地下のアリの巣のようにつないでいかなくてはならない。大きなものに従うという知性では全く物足りないのである。
参考までに、私の問題設定は、4月2日に「B面の岩波新書」というHPで「パンデミックを生きる指針―歴史研究のアプローチ」という文章で提示した(実はこの文章自体も指針は自分で立てよ、という呼びかけなのだが)。今回の寄稿で私が試みたいのは、各自で問題設定をするときにどのようなことを知っておくべきか、その前提となる事実の提供である。
●新しい危機ではない
それは次の一言に尽きる。今回の経験は、人類にとってなんら新しい経験ではない、ということだ。それは二つの意味でそう言える。
第一に、人類はペスト、結核、チフス、コレラ、インフルエンザなど、疫病の歴史を繰り返しては、多くの人口を失い、その度に新しい時代を作り上げてきた。多くの人間が疫病で死んだり、政府が隔離を指示したり、情報を収集したり、人々が家に引き篭ったり、マスクをしたり、政府が右往左往したり、デマが流れたり、これを機に商売を拡大しようとしたり、権力を拡大したりすることは、別に今だけの現象ではない。
ちなみに、『ロビンソン・クルーソー』の作家であるダニエル・デフォーは『ペストの記憶』という本を1722年に出版し、17世紀ロンドンでのペスト禍について非常に詳細に綴っている。
そこには、ヤブ医者も詐欺師も、ペストに効く怪しい薬も登場する。「効果抜群! 空気感染を防ぐ栄養ドリンク」「ドンピシャの対策! 感染しても元気を保つ―抗ペスト丸薬」「本物はウチだけ! ペスト酒」など(『ペストの記憶』武田将明訳、研究社、2017年、38頁)。ロンドン市長は、1665年の条例で、ペストであると認められたら隔離すること、遺体を教会に運ぶとき誰も付き添いしてはいけないこと、感染者の物品を転売しないことなどを定めている。新鮮さを感じないのは私だけではないだろう。感染者が出た家には印をつける、という項目もあるが、これと現在の感染者の経路の明示はそれほど遠くない。
つまり、不安になると怪しい情報や怪しい薬に頼りたくなるのは今も昔も変わらず、どれほど文明が発達しようとも、世界中の情報を得るポケットサイズの機器を持ち得たとしても、結局不安に駆られるのは、今も昔も変わらないのである。
それは百年前、世界で1億人とも言われる死者を出したであるスパニッシュ・インフルエンザも変わらない。当時は第一次世界大戦の最終年。政府も軍も情報を集め損ね、デマが流れ、便乗して儲けようとする輩も現れた。そんな中で重要だったのは、マスクであり、国際協調であり、軍隊の上官の部下に対する優しさだった。
情報を正しく集め、分析し、デマや大きな声に惑わされず、威勢をはらず、身の回りを清潔に保ち、しっかり食事をし運動して免疫を高める、という小学校で習うような平常の行為がどれほど尊いことか、そして、危機の時代も人間の尊厳を崩さないことがどれほど難しいか、感染症の歴史はむしろ浮き彫りにするのだ。
●危機は日常であったこと
第二に、社会的な観点である。新型コロナウイルスが蔓延するずっと前から、多くの人たちはすでに生命の危機に晒されていた。テレワークができる人間はそれができない人間によってしか、仕事も生活も営めない。後者の致死率が高いことは、世界各地で証明されている。
ひとり親にとって自分が病気になって子どもが孤立するリスク。病院の清掃員にとっては自分が感染するリスク。看護師にとっては厳しい仕事状況で体調を崩すリスク。チェルノブイリや福島第一原発でずっと収束作業をしつづける労働者たちにとって健康を崩すリスク。そんなリスクは、いまあなたが新型コロナウイルスに感染するリスクよりも低いだろうか。
百年前もそうだった。兵士たちの生命は戦争の勝利という大きな目標の二の次だった。ただでさえ換気の悪い炭坑で働き、炭塵で肺を痛めていた労働者に、ウイルスが来襲した。アメリカでは清掃員が病に倒れ、街にゴミが溢れた。看護師や医師が未知の病原体への不安に駆られながら、献身的な作業をしたという事例は史料にあふれている。
そして、そのような労働をする人たちにこそ、パンデミックはさらに負担を増大させる。社会の不公平な仕組みを知ってしまった以上、後戻りはできない。それを保存させるのではなく、変えていくために、私たちは問いを立て、勉強を重ねていかねばならない。
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