阪口和郎さんは錦漁港で1、2を争う、ウデのたつ漁師です。かと言って自慢話や手柄話を一度として聞いたことがありません。大変寡黙な人で、私たちとの会話もいつも隣にいる雪子さんが相手をしてくれて、それをニコニコしながら聞いています。
そんな阪口さんがある時、自分たちは瀬戸内海あたりの漁師とはわけが違うと、ポツリと言ったことがあります。あの鳥羽一郎が「波の間に間に命の花が」と唄った鳥羽から錦までリアス式海岸が続き、小さな湾から一歩出るとそこは太平洋の荒海です。太平洋を相手に小さな船で、たったひとりで、自分の全てをかけて闘っているその気概を言ったのだと思います。そして自分のウデひとつで家族を養っていくという気概であり、それが原発なんかいらないという気概につながっています。現に3人の子どもたちを育てあげました。
研修で若い人たちを連れて行って、魚のサバき方を教えてもらう時になると一変して怖い人になります。おそらく仕事に対するきびしさの片鱗が出てくるのだと思います。聞いた話ですが、明志くんに仕事を教える時、明志くんが間違うと包丁が飛んできたそうです。
錦港は反対運動の強かった南島町の古和浦漁港と違って、大きな網元が中心で、たくさんの漁師を雇って大きな船で、大敷網(定置網)で、事業としての漁業を営んでいます。いちど大敷網にブリの大群がかかったことがあって、次から次へと1メートルをこえるブリが何百匹と水揚げされ、氷水と共に金属製の大きな生けすに入れられてトラックに積み込まれていました。それは壮観でした。あれだけで何百万円にもなるのでしょう。この人たちにとって原発問題はおカネの問題なのだと思います。
また、自分の代で漁師をやめた事が何よりも残念だと言ったこともありました。時々自嘲気味に「陸にあがったカッパ」と言うことはありましたが、それは単に自分の仕事が変わったことを言っているのだと思っていました。ところが、漁師というのは稼業ではなくて家業なんだとその時初めて気づかされました。海の中のこと、海の上のこと、季節のこと、その他いろいろなことが各家に引き継がれてきたのでしょう。隣の漁師は仲間ではあってもライバルです。親から子へと知識と知恵と技術が引き継がれていくのが漁師なんです。
中部電力も国も、阪口さんを始めとする漁師たちの気概を見くびったのだと思います。
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(西京都産直・河中剛史)
昨年11月に亡くなられた「よつ葉のコンピューター屋さん」クリエイト大阪の森下雅喜さんは、旧・高槻農産の仕事もしていました。月・水・金曜日は「よつ葉のコンピューターシステム」の仕事、火・木・土曜日は高槻で畑仕事でした。「本業はなに?」と聞くと、大真面目に「農民です」と真っ黒に日焼けした顔で、にっこり笑いながら答えていたのを思い出します。
数年前から「高槻の野菜づくり教室」の講師をお願いしていたのですが、今年から「旧・よつば農業塾」第1期卒業生の大木明佳さんに講師をお願いしました。今年「高槻の野菜づくり教室」に応募してこられた方は約30人、抽選の結果11人の方が当選されましたが、落選した方には、高槻で火曜・木曜・土曜日に開催している「原の畑ボランティア」という農業体験をお勧めしました。
この「原の畑ボランティア」の取り組みは、旧・高槻農産で森下さんが毎週やっていた畑仕事が次の人たちに引き継がれたものです。その運営の中心メンバーには「野菜づくり教室」の生徒だった早瀬弓夏さんも高槻生協農業事業部のスタッフとして関わっています。
亡くなられて、もう半年が過ぎようとしていますが、あらためて森下さんを身近に感じる今日この頃です。
(事務局・田中昭彦)
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