昨年の12月1日、いたみホールでさようなら原発1000人集会があり、元福井地裁裁判長の樋口英明さんの「私が大飯原発を止めたわけ」と題する話を聞く機会がありました。その中で「私は三重県出身で、地元の芦浜原発反対運動にはずっと注目していました」と話されたことが印象的でした。
芦浜産直出荷組合の製品には全て「芦浜原発反対」のシールが貼られています。出荷組合そのものが反対運動の中から生まれ、よつ葉はずっとつきあってきました。裁判長というのは遠い存在だったのですが、そんな人と心がつながったようでうれしくなりました。
樋口さんは1952年生まれで京大法学部出身です。樋口さんが在籍した頃の京都大学はまだまだ学生運動が活発でした。その学生運動の課題のひとつに伊方原発反対闘争がありました。建設予定地には現地住民の反対期成同盟があり、学生たちは現地闘争団を組織して支援していました。また、松山地裁に原発差し止めの訴訟を起こしていて、こちらは学生ばかりでなく、若手研究者たちもこぞって支援していて、さまざまな分野から原発反対の準備書面を提出し、後に第三書館が出版物にしましたが、百科事典ほどの厚さになりました。京大原子炉実験所の小出裕章さんはすでに旗幟を鮮明にしており、原子核工学科の荻野晃也さんも名乗りをあげていました。
伊方原発が予定されていた佐多岬半島は全体がみかん畑でおおわれていて、まずは土地を手に入れなければできないのですが、その土地所有者の間で反対期成同盟が作られていましたから四国電力は手を焼いていました。そこで四国電力は期成同盟の会長さんの奥さんを騙して契約書にハンコを捺させ、それを後から知った会長さんからきつくなじられた奥さんが悔やんで自殺してしまうという悲劇まで起こしていました。
1973年だっと思いますが、京都大学の全学自治会の呼びかけで愛媛大学で伊方原発反対の全国学生集会が開かれました。そして翌日、松山から八幡浜へ電車で移動し、八幡浜から伊方までデモ行進しました。天気のいい日でした。この時、デモ指揮した清水さんは後に、あの望月記者が所属する東京新聞の論説委員に、現闘団のリーダーだった近藤さんは後に八幡浜という小さな町の小さな新聞社に職を得て、伊方原発反対闘争に骨を埋めました。
当時の学生運動や若手教官の反原発の声は樋口さんの耳にも届いたかもしれません。
実は30代の頃の私は、よつ葉牛乳の配送をしていました。当時は、牛乳の購入代金は前払いで12本パック単位での申し込みでした。そんな面倒な手間をかけても、よつ葉の輪が広がったのは、複合汚染を知って、「安全な食べものを求める」声が少しずつ広がっている時代だったからだと思います。発熱した子どもを荷台に乗せていると会員さんから声をかけられ、仕事が終わるまで子どもを預かってもらえるような「つながり」がありました。
50代の頃、NPO(特定非営利活動法人)を仲間と一緒に立ち上げ、自分自身も学ぶために「よつ葉ヘルパー2級養成研修」を地域のよつ葉センターの協力をえて、5カ所で開催しました。介護保険制度が施行され、「家族介護」から、「公的介護」へと時代が変わってきていました。現在、社会福祉法人よつば福祉は、「上野デイハウスしもつき」(地域密着型通所介護)と「ケアプランとまと」(居宅介護支援)の二つの事業所を運営しています。働くスタッフが23人と小規模の法人ですが、元気な現場です。
上野デイハウスでは開業以来、食事の基礎調味料はよつ葉の食材を使っています。「おはようございます!」と朝、ご利用者が来られた時に室内では昆布とかつおの香りがいっぱい。そしてリビングで皆さんがレクリエーションをされている隣で、肉と大根がマーボー大根に、練りごまがゴマ豆腐に、さくら卵が卵焼きにとお昼の準備がすすみます。スタッフも同じ昼食で、同じ分量(一汁三菜)です。皆さん残さずに食べてくださいます。自分の口で、おいしく食べることが、元気の素だとつくづく思います。
そこで、食べる前の口腔体操(15分間)と食後の口腔ケア(歯ブラシなど)もしっかりやります。実はこの歯ブラシの時に義歯を外していただくのですが、過日、ある方のご家族からご本人の口中に義歯が見当たらないとの連絡をいただき、ゴミ袋の中も開けての大捜索をしたこともあります。いつの間にか、外してしまわれることがあるのです。翌日、自宅のワンちゃんのマット下から発見されたと伺いほっとしました。
編集委員になって1年あまりが経ちました。今年で49歳になりますが、私事ではめまぐるしく環境が変わりました。昨年に父が急逝してしまい、家業でもあるので残してくれた田んぼで稲作をしなければなりませんでした。
ところが、父が健在な頃から少しずつトラクターの使い方を教えてもらっていましたが、いざ自分でやろうとすると、どれだけの深さで土を耕すの?と、とっても基本的なところからスタートが始まり、あまりに深く耕すと田植えの時、くるぶしどころか膝までずぶっと足が入り込んで身動きがとれなくなったり、田植え機で植えているのにきちんと植えられていなくて、ぷかぷか浮いていたりで大変でした。
父も兼業で仕事しながらしていたはずなので簡単かなと思っていましたが、なかなか時間がとれず大変でした。野菜や花を植えて楽しんでいた父は土や農業が好きだったんだなあと今すごく感じていて、私もそう成れればと思うしだいです。
(京阪産直・庭林利行)
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