イギリスの宇宙物理学者スティーブン・ホーキングさんが亡くなりました。彼が1988年に出版した『ホーキング、宇宙を語る』は世界的なベストセラーになり、日本語版も話題になりました。2001年には来日し安田講堂で講義もしていますが、その時には車いすで生活していて、声も失っていたため車いすに取り付けたパソコンの人工音声を上手に使いこなして、会話も講演もやっていました。
その彼が何年も前にAI(人工知能)の発達について次のように警告しています。「もしあなたが目覚めた時、そこが監獄の中で、しかもその看守がネズミだとしたら、あなたはおとなしくそのまま監獄の中にいますか」。つまり、いつかAIが人間の手に負えない日がくるというのです。
新井紀子さんは国立情報学研究所の教授でここ何年も「東ロボくん」と名付けたAIにいろんな大学の入試問題を解かせ、東大合格レベルまで成長させるプロジェクトに取り組んでおり、そのリーダーです。東ロボくんはすでに関関同立には合格できるレベルだそうです。ただしこの人はホーキングさんとは違ってAIには限界があると主張しています。読解力のカベです。彼女が書いた『AIvs 教科書が読めない子どもたち』が話題になっています。AIが苦手としている読解力において、今の子どもたちも苦手としていて、AIにも負けてしまうと言っています。
東ロボくんはもちろん、日本語で受験しているわけで、彼がつきあたっているのは「読解力のカベ」と言うよりも「日本語のカベ」のような気がします。英語では主語も動詞も省けないし、代名詞も特定できますし、語順が変われば意味まで変わってしまいます。ところが日本語は何でもありです。頭の固いAIにとっていちばん苦手な言語です。
将棋の天才棋士、藤井聡太くんは序盤の戦い方を将棋ソフト同士に戦わせてみることで勉強したそうです。従来の戦法にとらわれない手が参考になるそうです。将棋の世界ではトップ棋士ですらもうAIには勝てません。彼らはごはんも食べず、夜も寝ないで指し続けることができるのですからどんどん強くなっていきます。その藤井くんが大事なことを言っています。「考えることをAIにたよってはいけない」と。
ところが現実にはどんどん考えることを放棄してAIにたよっています。たよればたよるほどこちらの考える力は落ち、AIは賢くなっていきます。
ホーキングさんが鳴らした警鐘にもっと耳を傾けるべきではないでしょうか。
バチャン村の牛飼い、カァカ(妻の叔父)に会いました。カァカは暑季、涼しい標高3200m近くで、ありあわせの材料で作った仮住まいに寝泊りしながら、水牛を放牧しています。そして搾った牛乳と乳加工したギゥ(バターオイル)を近くにある、トレッキングルートの中継地ゴレパニで売ります。寒季になると、寒さに弱い水牛を連れ、2000m前後にある村へ降りて過ごします。カァカは水牛が適応しやすい気温と植生に応じて、山中を移動する〝移牧〟を40年以上続けています。それで、カァカがちょうど村に戻る季節、ワクワクしながら訪問したら、留守でした。
実はカァカ、家の下方にある段々畑で、また仮住まいを作り、そこで水牛と寝泊りしていたのです。家から離れた傾斜の畑に、牛糞堆肥を運ぶ負担を軽くするためです。そして今何頭ですかと聞くと、「7頭飼っている」と。でも6頭しかいないので、もう1頭は?と聞くと、「一緒に戻って来なかった」と言います。失ったのかと聞くと、「そうではない」と。じゃあどこにいるのと聞くと、「わからないけど森にいる」と答えます。森しかない所で、水牛はいなくなっても森にいるのは当然なのですが、カァカは動じていません。
カァカは放牧中、森に向かって「ウォーウォー」と呼ぶと、森から水牛が「アァーアァー」と答え、陽当りの良い草地にある仮住まいに集まって来ます。そして暑季は週1回、少し寒くなると月1回、握った塩を口元に持って行くか、決まった岩に塩を載せて、舐めさせます。塩をほしがらない場合でも、水牛は遠くから「アァーアァー」と返事するので、所在がわかるとのことです。塩を与えて馴じませた水牛は、数か月いなくなっても、必ず塩を求めて戻って来るそうです。
カァカは水牛のペースで移動する傍ら、森の中を歩き、水牛が好む飼葉、高所に自生する数々の薬草、季節の山菜を採り、ヒマラヤの高低差に応じて異なる自然を見事に利用しながら、水牛と共に豊かに生きている、と僕は思うのです。
段々畑の簡素な仮住まいと牛舎
ひこばえ(よつ葉の企画・制作部門)から入社のお誘いをいただいたとき、「ひこばえ」の意味を知らなかった。辞書を引くと漢字は「蘖」、語釈は「切り株や木の根元から出る若芽のこと」。当時の『ひこばえ通信』星野編集長に、なぜ「ひこばえ」にしたのか尋ねた。
「切られてもまた生えてくるんや。踏まれても叩かれても生き残るっちゅーこっちゃ。ガハハハ」
社名にふさわしいキャラの職員が多い、と補足説明もあった。勧誘される身としてはいっしょに笑えない気もしたが、同時多発テロとBSEの2001年のことだったので、世界史が動く予感とともに(ちょい盛り)翌年4月の入社を決意。行ってみたらやさしい人が多かったが、すぐにできたばかりの連絡会事務局に移籍になって現在に至る。
古い資料によると、「ひこばえ」は通信とバスの愛称を83年に募集し、決められたもののようだ。「不屈のシンボル=草の根として理解し、愛称に決定」とある。元編集長の説明は「不屈」の彼流の語釈だったわけだ。
彼は昨年亡くなったけれども、『ひこばえ通信』を引き継いだ『よつばつうしん』には「ひこばえ」のごとく不屈に、踏まれても叩かれても生き残ってほしい。
(編集部・下村俊彦)
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