(その37)浮世絵がどうやってフランスに伝わったのか
あべのハルカス美術館でやっていた北斎展にカミさんといっしょに行こうと言っていたのですが、彼女は京都の友人から声がかかってさっさと行ってしまったために、こちらは行きそびれてしまいました。
北斎の富嶽三十六景の斬新な構図がフランスの印象派の画家たちに影響を与えたのは有名な話です。明治になって欧米との通商が始まり、日本からは絹とならんでたくさんの陶器が輸出されましたが、それらを割れないように包むのに浮世絵が使われたそうです。今なら新聞紙でくるむのですが、当時の浮世絵はそのくらい出まわっていたようです。
当時の木版画は木版印刷の一種で、いくつも版を重ねることによっていわばカラー印刷を実現したわけです。蔦屋のような版元があって、北斎らの絵師が原画を描き、彫師や摺師などの職人が大量に印刷し出版されていました。『東海道中膝栗毛』や『南総里見八犬伝』などの小説や、瓦版などもやはり木版で印刷されていました。なかには料理本もあって、しかも農村向けの料理本もあって、この時代の庶民の多くが字を識っていたわけです。映画『たそがれ清兵衛』に幼い二人の娘が寺子屋に行くシーンがありますが、男女の隔てなく読み書きが教えられていました。
紫式部や清少納言ら当時の女性たちが平仮名をわが物として使いこなすことで、漢字や中国語にしばられていた男たちに先んじて、小説や随筆を生み出しました。これより先の万葉の時代には男女の隔てなく和歌を詠み、それを漢字で書き表しました。この万葉仮名から、例えば「安」の字をくずして「あ」の字になるなどして平仮名が生まれ、女たちのものとなりました。毎日自分たちが使っている言葉に文字が与えられたのですから、その喜びは大変なことだったでしょう。まず日記を書き始めます。いわば愛を語り合う言葉に文字が生まれたわけです。
今から1200年も前に女性が読み書きをできたということは世界の歴史のなかでも日本だけの特別なことです。古くから書物のあるギリシャにしても中国にしても女性は完全に埒の外に置かれていました。
この伝統は引き継がれ、例えば江戸時代の上州における養蚕業は主に女性によって担われました。これがカカア天下につながっているのでしょう。大阪のおばちゃんが元気がいいのも、商家で女性が大きな役割を果たしてきた文化と無縁ではないと思います。
収穫後のダル豆と亜麻仁を担ぐ
2017年12月 関西よつ葉連絡会
先日、歯医者さんでの出来事です。
治療を終え待合室に向かう途中、同じく歯の治療に来ていた友人と出会いました。
まだ麻酔が効いていて顔面左半分の感覚のないまま、挨拶もそこそこにお互いの症状と今後の治療計画について語り合いました。そして話題は昨年末に急死した共通の友人の思い出話にかわり…、とここまで話して、これってまるで病院の待合室でのお年寄りの会話そのものじゃないかと気付き、顔面は麻痺したままの笑いを残し別れました。
確かに二人とも誰が見たって立派なじじいなんですが、いとも簡単に待合室の罠に陥るとは情けない。
内科ではなくて歯医者さんなんて言い訳は通用しません。僕がヨボヨボのじいさんになったならと脳天気に唄っていた頃には見えなかった扉をついに開けてしまったようです。さてどんなじじいになってやろうか。
(ハム工場・佐藤雄一)
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