(その35) かつて女が文字を持ち物語を書いた
光源氏が数々の女性を遍歴することをもって不倫とみなすのは現代の社会規範であって、当時は男が女の所へ訪ねて行って愛を交わすのが普通のことでした。これを女性の側から見れば生涯の間に光源氏以外の男も受け入れていたはずです。現に女系社会を今も引き継いでいる中国のある少数民族のところでは、女性が生涯に受け入れる男性の数は平均で5人ぐらいだそうです。男もそうでしょう。光源氏は、ちょっと多いかもしれません。
源氏物語の作者紫式部は女性です。全て平仮名で書かれています。同時代の清少納言も女性で『枕草子』は全て平仮名で書かれています。どちらも自分が仕える中宮の所へ天皇が渡って来てくれるようにと面白い読みものを用意したそうで、枕草子はタイトルがそのものズバリに現しています。
紀貫之が『土佐日記』の冒頭で「女たちがやっている日記というものを男の自分もやってみたい」と断っているように、日記と平仮名は女性の占有物でした。仏教も律令制も中国から輸入した日本では公用語は中国語で、自分の考えや気持ちは漢詩で表現しました。最澄と同じ時に遣唐使で訪中した空海は、どこの馬の骨ともわからない存在の時にすでに中国語も漢詩も中国人がびっくりするほど達者だったそうです。司馬遼太郎によればですが。男たちからすれば日常語で自分の思いや考えを表現できる女性がうらやましかったに違いありません。
仏教はインドから中国へ伝えられました。三蔵法師の旅は経典をインドから持ち帰る旅でした。途中、さまざまな苦難を孫悟空らの助けを借りて乗り切りました。持ち帰られた経典は全てサンスクリット語(古代インド語、梵語)で書かれており、これを中国語に翻訳するのを国家事業として取り組みます。その時、全てを中国語に置き換えるのではなく、梵語を一部に残しました。例えば般若波羅蜜多(はんにゃはらみった)」は梵語ですから意味不明です。その後の色即是空空即是色は中国語ですから何となくわかります。
本来表意文字である漢字を般若波羅蜜多のように表音文字として使ってもいいんだ、と当時の日本人は学んで、和歌をはじめいろんな場面で日本語(あいうえお)を漢字表記し、その結果として平仮名を生み出しました。ただし本家の中国からしたらとんでもないことなので、日記や和歌のようなプライベートな部分で盛んに使われていったのでしょう。中国に近いベトナムや韓国では許されず、自分たちの文字を持つまでに大変な苦労をします。
先日、仕事に関して珍しくインタビューのようなものを受けた。生い立ち、家族の事、学生時代、これまでしてきた仕事、今の仕事をするようになった経緯などさまざまなことを質問された。
インタビュアーが聴き上手なのか、普段はそんなに自分の事を話す方ではない僕もどんどんと話をしていた。相手は東京の人で、おそらくもう会うことはないし、他に聞いている人もいない状況がそうさせたのかもしれない。
聴かれなければ思い出したくもない挫折や苦い思い出、反対に上手くいったこと。話す中で、自分の事をその時々の想いと一緒に振り返り、今の気持ちを整理する良いきっかけとなった。
働き始めて約20年。僕は来年40歳になるので、折り返し地点も近い。忘れたくても今までの失敗をなかったことにはできない。
20年後にどうしているのかは想像もつかないが、その時に今までの経験が活かされたか振り返ってみるのもいいかもしれない。後悔ばかりでなければと思うが…。
(パラダイス&ランチ・高木俊太郎)
Copyright © 関西よつ葉連絡会 2005 All Rights Reserved.