
口は命の入り口
佐藤 弘(西日本新聞社編集委員)
「佐藤さん。さきほどから食材のことばかり言われているけれど、首から下のこと、考えていますか。どんな食べものも噛まないと意味がないんですよ」
私の地元、福岡県で開かれたシンポジウムで、パネリストの歯科医師、大林京子さんから投げかけられた言葉が、私を口の世界にいざなうきっかけになった。今から12年前のことである。
■抜け落ちていた動詞
真ん中に「食」を置き、その周囲を動詞で囲んだ「食育の概念図」=イラスト=を見てほしい。

多くの人は、食を「食べる」ことでしかとらえていない。だから、「これを食べると元気になる」、あるいは「病気になる」といった情報に右往左往する。だが、人の健康度がわかるのは、何を食べたかよりも何を出したかの方だ。立派な便が出るときは、腸内細菌の状態もいい証拠。体の免疫機能も働いている。
「食べる」前には「作る・捕る」もある。いつ、どこで、だれが、どのように作ったかで栄養価は変わってくるし、それを受け入れる私たちの体の状態も季節によってまた違う。さらに、「買い物する」「調理する」技術。そして、「出す」には、ウンチもあれば、ごみもある。それらを土に返して、また食べものを作り、循環の輪を回していく―。
食材が形を変え、ぐるぐる回る循環図。その輪をつなぐのが「教育」であり、循環図の縦軸が「感謝」「ひもじさ」といった感情であるという考え方の下、私は2003年から、西日本新聞で「食卓の向こう側」という長期企画を手掛け、「子どもが作る“弁当の日”」などを広げる提案をしてきた。
その私に抜け落ちていたのが、「食べる」と「出す」の間にある「噛む」。
例えばゴマ。このなかにはセサミンなど、とても有効な物質が入っているが、噛まなかったらどうだろう。そのままウンチとして排出されるだけ。献立の栄養成分にはカウントされても、栄養的には何の意味もない。
取材を始めると、歯と口回りの世界のなんと奥深いこと。「むし歯」「歯周病」程度しか知識のない私には、知ってそうで知らないことが、それはそれは多かった。
「へー」「ほー」。私自身の驚きが紙面から伝えられれば、この連載は、きっと受け入れられる―。私の予想はたがわず、食卓の向こう側第13部『命の入り口 心の出口』は手応え十分。連載をまとめたブックレットは発行部数5万部を超えるロングセラーになっている。
■どう食べるか
噛まない弊害はいろんなところに現れている。
その一例が口元。一度、周囲の人々をじっくり観察してほしい。お口の開いている人の多いことに気付かれると思う。ある小学校の食育授業を訪ねたとき、あまりにもお口ポカンの子どもが多かったので、授業そっちのけでその表情を撮ったら、実に33人中22人の口が開いていた。
なぜ口が開き、口呼吸になるとまずいのか。インフルエンザで説明しよう。
インフルエンザのはやる季節の特徴は、寒さと乾燥。この季節、インフルエンザウイルスは空中の埃の中にも潜んでいるのだが、これを鼻から吸い込んだ場合、さまざまな関門が用意されている。
まずは鼻毛である程度ブロック。そこをくぐり抜けたら次は鼻腔に行くのだが、ここに来ると、どんな冷たい空気でも、脳と舌の熱さによって30度まで上がる。さらにここをすり抜けたとしても、のどの奥にはじゅくじゅくした粘膜組織があり、空気には湿り気が与えられる。熱さと湿気。ウイルスが嫌う条件を与えられることによって、ウイルスはその効力を失うのである。
一方、空気を口から取り込むとどうか。フィルターにかかることもなく、ウイルスはのどの奥まで進み、粘膜に突き刺さる。このとき、口内に歯周病菌などが多いと、さらに繁殖のスピードは速まるそうだ。

なぜ口が開くのか。それは舌が垂れるから。舌先の正常な位置は口蓋(口の天井部分)に付いているが、口が開いている人は下の歯の裏などに付いている。
舌は横紋筋という種類の筋肉。動かせば鍛えられるし、動かさなければ弱る。
現代の食の特徴は加工食品の多さと柔らかさ。精製度が低い素材から作った食事なら食物繊維も豊富だから、噛むこと自体が歯磨きになるのだが、加工食品はその真反対で、数口噛めば、飲み込めてしまうものが多い。その結果、舌が垂れる→ポカンと口が開く→口呼吸。口の中が乾くから、口臭もきつくなるし、舌が垂れてあごの下がたるんで気道も狭くなり、睡眠時無呼吸症候群に…。まさによくないこと満載なのである。
1日にヒトが食べる食事の量は1.5kg。一方吸気は1万Lで、重さに換算すると約10kg。ヒトの体が食べものと空気からできている以上、これを口から入れるか、鼻から入れるか。その差は大きい。
何を食べるかはとても大事なこと。何を選ぶかで、選挙のように世の中を変えることもできる。でも、健康という観点から見れば、どう食べるかはもっと大事かもしれない。
かみ合わせ、滑舌、糖尿病、肥満。低体重児……。命の入り口である以上、口の世界は体のあらゆるところにつながっている。よつ葉の皆さん。口の世界にも視野を広げてみませんか。美容にもつながるし、健康寿命が確実に延びますよ。

『命の入り口 心の出口』
食卓の向こう側〈第13部〉
西日本新聞社「食くらし」取材班【著】
西日本新聞ブックレット 111ページ
2010年7月刊
514円(本体476円)
『ライフ』420号で注文できます
注文番号:59619
さとう・ひろし 1961年、福岡市生まれ。中学時代、有吉佐和子の「複合汚染」を読み、ふるさとの野山がおかされていくわけを知る。東京農大に進学するも、深遠なる「農」の世界に触れ、実践者となることを断念。側面から支援する側に回ろうと1984年、西日本新聞社に入社。主な著書に「食卓の向こう側」「ながのばあちゃんの食術指南」(いずれも西日本新聞社)。