(その33) 上皇と言えば後白河天皇、そして京都大原寂光院
天皇が退位して上皇になることが決まりました。上皇と聞くとやはり、平安時代末期に平清盛と覇権争いをした後白河上皇を思い浮かべます。
今から45年前学生だった頃、縁あって寂光院で週1回月曜日に受付と本堂での案内の仕事をしていたことがあります。当時、市川崑監督が初めてテレビの時代劇を撮った『木枯し紋次郎』が放映されることになりました。サークルの先輩が岩倉に下宿していて、まだまだ誰も部屋にテレビを持っていなかった時代に「隣のヤツのところにテレビがあるから頼んでやるから」と見せてもらいに行きました。“あっしにはかかわりのないことで”とか長いつまようじとか、一世を風靡したぐらいで大変面白く毎週通い続けました。次の年に『必殺仕置人』が始まった時にチャンネル争いに加わったぐらいですから、少なくとも1年間は通ったのだと思います。
後から知ることになったのですが、この下宿のお嬢さんが寂光院で案内の仕事をしていました。岩倉は幕末に活躍した岩倉具視の在所で、出町柳を出た京福のチンチン電車がふた手にわかれ、鞍馬山へ向う側の1つ目か2つ目の駅でした。離れだけで学生を5人も下宿させるような大きなお屋敷でしたから、おそらくかつては岩倉の里でも有数の富農だったと思われます。お嬢さんも何らかの縁があってその仕事をしていたのでしょうが、晴れて結婚することになって、庵主さんから後釜を探すように頼まれたようです。ただし、長髪はダメ、学生もダメという条件だったのに、なぜかこちらに白羽の矢が立ち「面接だけでも」と言われて行ったところ、なぜか長髪で学生だったにもかかわらず採用されてしまいました。
寂光院の小さな中庭に池があって汀(みぎわ)の松があります。建礼門院徳子を訪ねて後白河上皇がお忍びでやってきて、その松に馬の手綱を結びつけたと伝えられています。『平家物語』の最終章を飾る「大原御幸」の段で語られるエピソードです。壇ノ浦の戦いで息子の安徳天皇は入水し、平氏一門も滅び、徳子だけが助けられて生き残り、京へ送還されて出家し建礼門院徳子と名乗り、寂光院で安徳天皇と一門の菩提を弔って過ごしました。後白河天皇は徳子が中宮となった高倉天皇の父親ですから、徳子にとっては義父にあたります。
下級貴族の娘に生まれながら入内して極楽のような栄華を味わいながら、壇ノ浦では地獄を垣間見ながら生還した建礼門院徳子こそ「諸行無常」を体現した人でした。
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(ひこばえ・下村純子)
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