一次産業と工業を同列に議論する愚 私たちは農業の更なる崩壊を招く、新たな「自由貿易協定」に反対します。農業と工業を同列に置く愚をもうやめるべきです。「先進国」と呼ばれる社会の中で、農業や漁業など食の生産を政治が疎かにするのは私たちの社会だけです。それも、食の生産に恵まれ過ぎるほどの自然環境があるのに!です。
競争力ある農業という考え方そのものが、農業を正しく認識することを妨害する、誤った考え方です。食の生産における一番の価値は、何千年と続けられてきた「米の生産」に見られるように持続的、そのためには循環的であることがなにより重要なことです。今の社会の主たる仕組み「市場経済」(これとて、実際は自由な市場ではない。力を持ったものがますます力をもちやすくするための仕組みだと思っています)の中では、そのことは保証されないがゆえに、「政治」が必要になると理解しています。
農業など1次の生産はその土地の自然条件に大きく影響されるわけで、工業生産とはまったく別のもの。それを、工業と同列に議論すること自体がおかしなことです。工業は何処で生産しようと構わないが、農業はそうは行かないことぐらいすぐに分かります。農業を批判するのに使われる理屈がそもそも前提を無視し、意図的に歪められて、もっともらしい見せ掛けを装って議論されるのが常で、いつも正当ではありません。
車を売るために農業を犠牲にすることなどばかげた話です。雇用を生み出すのは工業、従って工業を強くすることが必要という理屈なのでしょうが、私たちの多額の税金を使って工業を強くしてきた結果が今なのです。例え、工業が潤っても、その分配が多くの国民に公平にされた例など一度もありません。いくら規模が大きかろうと私企業であることに変わりはなく、私企業の目的は雇用を増やすことではなく利益を上げることにあるわけで、「公の政治」が私企業に奉仕すること自体、そもそも公正でないのです。
私たちはこれ以上の工業化社会は望みません。もう散々その弊害を見せつけられてきました。GDPという名の見かけの「豊かさ」に幻想を抱く時代は終わったと思っています。

能勢農場田植え体験交流会より |
地に根を下ろす生活へ踏み出す年に
今の社会は人にも自然にも優しくない仕組み。競争社会は、ある恣意的な基準の下に、優劣を仕分けする仕組みで、初めから大多数の敗者を前提にしています。万人が「勝者」になることなどありえない仕組みです。
政権が変わって、少しは今までと異なる方向へ舵を切るのかとちょっとばかり期待もしましたが、かつての自民党政権でもやらなかった方向へ大きく踏み出そうとしているのだから、とんでもない話です。「新政権」が頭の中は同じで衣を変えただけで、詐欺に会ったのも同然の気分。某外務大臣の「農業生産の国民総生産に占める割合はほんのわずか。そんな農業に力を入れる必要はない!云々」という趣旨の発言には耳を疑いましたが、こんな見識のない放言をする人が「人気がある」というのだから余計に驚きです。
半世紀以上に亘って、工業化社会の道をひたすら歩んだ結果、いつしか大地に確りと根を下ろす生活は嫌われ、浮き草のような生活が尊ばれるようになってしまいました。先の「世界的な金融危機」はそのような社会の将来に対する警鐘であったと思うのですが。
目先の「政策」の類に新しい時代の到来を感じさせるものは皆無です。そればかりか、将来を一層困難に陥れる危険を孕んだ政策の方が目立つ昨今です。
わたくし的には、農業、漁業など1次の生産をきちんと安心して営むことができる社会の在り方が一番です。大地に確りと根を下ろした生き方が尊ばれる世の中になるのが一番よいことだと考えています。
私たちに力があるわけではありませんが、そんな社会になるのに少しでも役立てることを願って、今後も食の仕事に関わって行きます。 |