原生協=北摂・高槻生協五十五年史編纂にあたって
60年以上前、敗戦のなか「協同」を追及した人々の証言
松永了二(北摂・高槻生協理事長)

『原生協=北摂・高槻生協五十五年史』
編集:原生協=北摂・高槻生協五十五年史編集委員会
発行:北摂・高槻生活協同組合
TEL.072-688-4878 |
今から60年近く前、まだ日本が敗戦後の混乱期にあった頃、高槻の寒村原地域で農民や山林労働者(キコリ)の生活を互いに支え合うために、山林労働者組合や生活協同組合を作った人たちがいました。
その原生協の定款には村人の日常生活用品の共同購入はもちろんこと、農作業の共同、金銭の貸し出しなどの共済、医療や福祉活動、平和運動、民主主義運動も含めた多様な協同の理念がうたわれていました。今日の「消費生活協同組合」のようなものの売り買い、生協をビジネスととらえるような考え方など微塵もありません。もっと人間の生活、社会全般を見据えた豊富な内容に満ちていました。また戦後間もないころで、平和や民主主義への深い希求にあふれています。当時起こっていた朝鮮戦争への日本の米軍協力にも生協あげて反対していました。
その内容豊富な定款の原案を作った人が、当時の灘生協の専務理事だと分かった時にはびっくりしました。彼は戦前に賀川豊彦の影響を強く受け、戦後に日本共産党の党員となった人でした。「生協はビジネスだよ、競争だよ」と語るコープこうべ(元の灘生協)にも、半世紀前まではこういう人もいたのだと新しい発見ともなりました。
そのような協同組合の理想を掲げ生協設立に奔走した人々が、今60年を経て次々と他界されていくのを目の当たりにするなか、何としても生きた言葉で当時の思いや証言を記録しておかねばならないと思いました。それが原生協を引き継いだ私たち北摂・高槻生協の役割であり、責任でもあると考え、生協史の編纂に着手しました。
編纂に当たっては単に生協中心の歴史のみならず、村の生活史をも記録に留めようと思いました。そのために思いのほか、編集に時間がかかり3年という歳月を費やしました。その間にも残念にも証言だけ残され、この本の完成を見ずしてお亡くなりになった関係者も数人おられます。
後もうひとつ記録に留めて置きたかったことは、原生協再建にあたり「地場野菜を街に」をスローガンに、消費者ではなく生産者、つまり農民が中心となり再建活動が行われたことでした。それまで見向きもされなかった原の地場野菜を見直し、これを「地産地消」しようという試みは高槻地域で注目され、北摂・高槻生協として再建される原動力となりました。そのことが今日でも地域の農業や農民と深く結びついている所以だということです。
実は原生協は設立から10年もしない内に、日本の高度経済成長期のなかで交通の利便性やスーパーの出現などによってその存在性を失い、休眠へと追い込まれてしまいます。休眠となって20年余りを経て原の村のなかで、生協の再建の動きが出てきますが、そのきっかけとなり力となったのが、当時建設途上にあった能勢農場だったのです。
人のつながりというものは大切なことですし、また大きな力ともなるものです。かつて原生協設立や山林労働者組合に関わりを持っていた人たちが、能勢農場建設に着手していたのでした。そこで原生協と能勢農場、よつ葉との新しいつながりが生まれたことも記録に留めました。 |