ひこばえ通信
2010年4月号(第285号)


第10回:トロって本当においしいですか?

 大西洋・地中海産のクロマグロ(本マグロ)の商業取引を禁止しようとする動きがありました。今回は事無きを得ましたが、今後もこの問題はくすぶり続けると思います。これを機会にトロ信仰をやめるべきでしょう。
 マグロは古くから食べられてきたようですが、「トロが一番おいしい」などと言い出したのは最近のことです。握り寿司を考案して食べるようになった江戸っ子たちは、マグロは赤身を一番と考え、トロは敬遠したとのことです。戦後、食事が洋風化する中で、こってりしたものが好まれるようになり、サシ入りの牛肉と並んでトロが好まれるようになりました。この延長線上に何にでもマヨネーズをかける若者たちがいます。
 大阪の西淀川区に佃という地名があります。淀川の河口あたりです。一方、東京にも佃島があります。これは偶然の一致ではなく、徳川幕府が、大阪の佃の漁師に頼んで移住してもらい、故郷の地名をとって佃島としました。佃煮を広めるためです。
 江戸時代中期の東京(江戸)には100万の人口があったそうです。同じ時期に、7つの海を制覇した大英帝国の首都ロンドンでも50万ですから、その大きさがわかります。武士が50万、商人・町人(職人など)が50万。参勤交代の武士たちは単身赴任ですので男があふれる街でした。いずれにしても100万人の都市人口を養うためには、それだけの余剰農産物がなければなりません。米屋ともち屋がそれぞれ2千軒、これが主食ですが、原料のお米は大阪の問屋を通じて全国から集った物でした。野菜は練馬大根、小松菜など周辺の農家が生産しました。そして、江戸の食糧の大事な部分を担ったのが魚です。
 江戸前とは江戸の前、つまり東京湾のことです。煮魚・焼魚をはじめ、刺身・佃煮・練製品(かまぼこ・ちくわなど)・だしじゃこ・ちりめんじゃこなど、ありとあらゆる魚を様々に工夫して、無駄なく食べました。落語にも目黒のサンマや芝浜などのネタがありますし、一心太助は魚屋さんというように、魚と切っても切れない生活をしていました。とれた魚をすべて利用することで漁師の生活も成り立ちますし、都市住民も栄養学的にみて非常にすぐれた食生活が送れることになります。
 この観点からすると、大西洋や地中海でとれたクロマグロをわざわざ東京の築地市場へ運んで、眼の飛び出すような高い金を払ってトロだけを食べるなどという食生活は、人間としての品性のないものです。
 マグロは漢字で鮪と書きます。鯖(サバ)や鰯(イワシ)、鰆(サワラ)など、魚へんの漢字にはわかりやすい字が並びますが、それらはいずれも日本人が作った字(和製漢字)だからです。ところが鮪は意味不明です。中国人も魚を食べてきましたが、川魚のコイやフナなどで鮪はチョウザメのことでした。日本には大きな河や湖がありませんからチョウザメはいません。同じように大きいマグロのことを鮪と勘違いしたのが始まりのようです。何でも食べると言われる中国人よりも、魚食に関しては日本人の方が食べ方も種類も数段上回っていました。
 残念ながら今は昔の話です。