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食べることを大切に
やさい村・河合左千夫
便利さと引き換えに、食べることがないがしろにされているとよく言われます。ファストフード、コンビニ弁当、そして個食。家族や友人とゆっくり食卓を囲むことが少なくなり、親がわが子のために食事を作らないことすら珍しくなくなっているようです。もはやないがしろにされているのは暮らしそのものかも知れません。ところで、よつ葉は「よつ葉憲章」に表現される志をもって食に関わる事業を営んでいるわけですから、そこで働く職員は食に関することなら、もちろんそれなりのことは言います。しかし、ではその職員自身はどのような食生活を営んでいるのか、自分自身の生活の中で「食べる」ということをどう考えてきたのか、というのもぜひ聞いてみたいものだ……ということで登場していただいたのは、本紙の編集委員でもあるやさい村の河合さんです。 |
今から一〇年と少し前、女房が二週間ほど入院することになり、朝食と昼の弁当(三人分)をぼくが、夕食と洗濯をお姉ちゃん(当時中学生)が、掃除を息子(やはり中学生)が、それぞれ分担することになりました。 女房とは結婚した当初から共働きでしたから、子どもが小さい頃はぼくもおシメを換えたり食事を作って食べさせたりと、まあまあやった方でしたが、子どもたちが小学校へ入学した頃から、ほとんど家事を何もしなくなっていました。また結婚以来その日まで、一日も寝込んだことのない元気な女房でしたから、全く頼り切っていました。「えらいこっちゃ。この人かて病気するんやわ。もっと大事にしたらなあかんわ」とびっくりし、家事をしっかりやって心配かけんようにしようとそんな気持ちになりました。 * わが家の朝食はごはんとみそ汁。みそ汁は厚けずりダシでしっかりとったダシに、三種類以上の野菜(鳴門わかめも含む)とうすあげの具だくさんにみそはごぜんみそ(今は田舎みそ)。うすあげは毎週三〜四枚購入して冷凍してあり、みそ汁に欠かせないだけでなく、なっぱを炊く時にも重宝したものです。それにあと一品、玉子を焼いたり、厚あげを焼いたり、干魚を焼いたり、納豆、冷奴などを添えました。 前の晩にどんなに遅く帰っても、酔っ払って帰っても、みそ汁のおダシをとっておくことと、大根を具に入れる時は、夜のうちにひと煮立ちさせておきました。朝になると大根がやわらかくなって手間が省けます。 ![]() * お弁当の方は、おかずを三品そろえるようにしました。肉または魚の料理で一品、野菜、煮物で一品、サラダで一品、だいたいそんな組み合わせでした。このうち、夕食の残り物一品、もう一品はみそ汁のダシをとるのと併行して作っておいて(例えば小松菜とうすあげの煮びたしとかほうれん草のおひたしとか)、朝は一品だけ作ればいいようにしました。 仕事が終わって、家に帰るまでの時間、弁当のおかずを何にするか、みそ汁の具を何にするか、そして夜のうちにどれだけのことをしておくか、そればっかり考えるのが日課となりました。もともと食いしん坊ですから、食べもののことを考えるのは楽しみでもありました。 * そんな風で、二週間はあっという間に経って、ぼくだけでなく、お姉ちゃんもがんばって毎日の夕食の仕度と洗濯をちゃんとやってくれました。(息子が分担した掃除の方はちゃんとできたかどうか定かではありません)。ぼくの方は女房が退院してきてからも朝食の仕度と弁当作りは続けることにしました。今までごっつう世話になったから少しでもおかえししよう、という気持ちでした。 それともうひとつ、当時のぼくはまるで居候みたいなもので(朝早く出て夜遅く帰ってきて玄関で寝るだけですから)、家族から浮いていました。特に息子がぼくを見る眼が厳しく、敵意すら感じました。家庭内暴力が問題になり始め、東京の方では息子が金属バットで父親をなぐり殺す事件も起きました。これはまずいと思っていた頃でしたから、せめて家事を分担することで家族の一員に加えさせてもらおうと思ったからです。 * あれから一〇余年、四年前にやさい村に単身赴任になったのをきっかけに、わが家での朝メシ作りと弁当作りは途絶えました。ただしやさい村では毎朝、具だくさんのみそ汁を作り続けていますし(厚けずりダシの取扱いが少なくなったのが悩みのタネですが)、土曜の夜に家に帰って日曜の朝のみそ汁作りはぼくの役目です。今でもみそ汁ができあがると「できたよ」と女房を起こしています。 子どもたちはそれぞれ就職して、それぞれひとり暮らしをしています。女房には「ウチの弁当は地味で色どりがない」などと文句を言っていたようですが、ぼくには一言も不平を言わず毎日弁当を持って行ってくれました。こちらにすればそれだけでも作りがいがありました。ほとんど会話がない父子でしたが、朝メシと弁当を通じて会話をしていたように思います。こちらの一方的な思い入れかも知れませんが。 |