杣烽舎 せんぽうしゃ(滋賀県高島市)その1
炭や焼畑から山野の若返りを考える
冬の生業がもっぱら炭焼きだった時代のことは、窯に火をくべながら師匠や同じ在所の年配者たちからたびたび聞かせてもらった。琵琶湖西部(現高島市)一帯の山野では、炭焼きの火とは別に春の雪解けを待って山野に火を放つ慣習が1960年代初めまで続いていた。
1970年代半ばに朽木村に住みはじめた私には、丈の短い草木におおわれた野山が村内で普通に目に入ったのでそれほど“昔の話”ではなかった。火入れを繰り返すと火に強い草木が生き延びる。朽木ではドングリの仲間コナラがたくさん生え出てくる。草ではワラビ、ゼンマイ、フキなど。かつて焼け跡の山菜類が、きつい仕事を担ってきた女子衆にとって何よりのご褒美だったという。
山野の草木を田畠、母屋に廻らすための火入れは揃った質や丈のホトラ(焼け跡に萌え出た柴木のこと)や屋根用のカヤを得るための知恵であったことが、10年近く前から仲間と山野を伐開し柴木や草を焼くうちに少し実感できるようになった。あえて“火”というプレッシャーをかけるという先人の知恵である。また、山菜類が火入れ跡に消えずにうつくしい葉色で生えひろがってくる現場にも出遭えた。
山野で一番の問題は、1960年代以降、薪炭が不要になり雑木山がほとんど野放しで、太る一方になったことである。湖西の場合は元ホトラヤマ(火入れ跡の丈の短い柴草の山野)の主な柴木であったコナラがそのまま成長してコナラ林や、雑木林になっていった。太すぎる原木は四つ割り、六つ割りしないと窯に籠められない。焼畑の場合、太い株元部分は簡単には燃えない。立木に登り梢部分をナタで下ろして林床に拡げ乾かして火を付ける、という方法は宮崎県米良の焼畑を記録したフィルムから教わった。焼畑の経験を林内の作物づくりに活かす。焼けない幹材は現地で割って炭に焼く。
山野自然の恵みをもたらす力が“火”である。山火事をわざと起こして獣を狩る発想、“火”のエネルギーにすがって畑を拓く焼畑、山野の恵みを田畠にもたらすホトラヤマシステム、これら多様な山のむらの世界に山野を若返らせる答えが詰まっている。
数人の仲間たちと、学生、村の人らの助けで、早いうちに火が拓いた山野の恵みをお届けしたいと思う。
(杣烽舎、火野山ひろば 今北 哲也)