ジェイネット


パレスチナ
私が初めて「難民」という言葉を聞いたのは今から約50年前で「パレスチナ難民」という言葉でだった。その頃からマスコミは「家・故郷・国を追われて、他所で暮らさざるをえない人々」を「難民」と呼び始めた。1948年、アメリカ・イギリスはアラブ石油支配を狙って、400万人が暮らすパレスチナ人(イスラム・キリスト・ユダヤ教徒など)の祖国の地にイスラエルという人工のユダヤ教徒国家をつくった。土地と家を追われてパレスチナ人は「難民」となった。大きな世界政治に翻弄されたパレスチナ人は以来75年にわたって、占領下パレスチナ(イスラエル)とパレスチナ自治区(ガザ、ヨルダン川西岸地区)とレバノン・シリア・ヨルダンなど近隣諸国で「難民」として暮らしている。私が1980年レバノン・ベイルートのパレスチナ難民キャンプを訪れてから40年以上過ぎたが、パレスチナ人の苦難はますます増大し、先が見えない閉塞状況が続いている。
ヨーロッパのほとんどのオリーブ畑ではバキューム機械で実の収穫がなされるが、パレスチナでは粗放栽培の実は熟し具合を見て手で摘まれる。摘まれたオリーブは24時間以内に石臼で潰され、昔ながらの圧搾技法で搾られる。その品質は高く評価され、日本オリーブオイルソムリエ協会の国際オリーブオイルコンテストで金賞を受けた。
ギリシャ・レスボス島
レスボス島はギリシャとトルコ国境沖合の島で、トルコから約10キロとほど近い。独立気運が強いレスボス人は古代からギリシャやトルコからの支配を嫌い、オリーブ栽培と観光を島経済の柱産業として育ててきた。1982年レスボス島を訪れた私は、当時「スペイン・イタリア産として世界に販売されていたレスボスオリーブを『レスボス島産オリーブ』として直接世界に出したい」と願う島の農業協同組合の人々の話を聞き、島おこし支援のオリーブフェアトレードを開始した。
その人口8万人のレスボス島に今、シリア・イラク・アフガニスタンからの2万人近い難民が流入している。大国の代理戦争の様相を見せる各地の内戦を逃れてトルコに入った難民たちは、先の避難先としてヨーロッパを目指す。そのヨーロッパへの入口として、多くの難民はレスボス島へ船で渡り、そこにテントを張って滞在している。ヨーロッパへの門は現在閉ざされたままで、過密軟禁状態で滞在する難民の3人に1人が子どもである。さらに難民キャンプにもコロナ禍は襲いかかり、昨年9月には新型コロナウイルス検査陽性者の隔離措置に反発する抗争から火災が発生し約1万人の難民が焼き出された。
難民が流入したレスボス島には、観光客がまったく来なくなり、島経済は崩壊しかかっている。レスボス島のオリーブ産業を守ることは喫緊の課題である。
今、難民で溢れているアラブ世界とその周辺地域の人々にとって、なくてはならない食べ物として地域経済を支えているのがオリーブである。好むことなく難民になり、そしてその難民を抱えた人々を支える現地オリーブ産業を少しでも応援していきたい。

(ジェイネット 吉田登志夫)
2021年『Life』410号

レスボス島流入難民の子どもたち
ジェイネット
パレスチナ手摘み オリーブオイル
パレスチナ産のエキストラバージンオリーブオイルです。パンやサラダ向きの軽い感じのするオイルです。
ジェイネット
オリーブオイル
ギリシャのレスボス島農協の生産組合で生産、加工されたバージンオイルです。