初めての出会い
精神科医中井久夫の存在を初めて知ったのは1998年の年末でした。中井は1997年に神戸大医学部教授を退任、その年の3月に最終講義を行っています。その講義記録がみすず書房から出版されたのが翌1998年5月。不覚にも僕は、まったく知りませんでした。朝日新聞は毎年年末に、新聞社の書評委員全員による、その年出版された書籍で印象に残った3冊を紹介する特集を組んでいます。98年の年末、書評委員数人が、この「最終講義」を取り上げていたのです。専門領域が異なる書評委員が同じ書籍を取り上げることすらめずらしいのに、何人もの書評委員が評価している本があり、自分がまったく知らないことに驚いて、本屋で捜し、立ち読みをして、購入しました。中井久夫との初めての出会いです。
「発砲率」の話
以来20年。彼の著書はわりとしっかりチェックして、専門書や興味を引かれなかった本以外、買って読んできました。2005年に出版された著書「関与と観察」に「精神医学および犯罪学から見た戦争と平和」という講演録が紹介されていて、その中に「発砲率」の話があります。5年ほど前に退任したのですが、当時、僕は㈱よつば農産の代表として、毎週水曜日だけは始業時から出社し、午前9時から職員・パート職員の朝礼に参加することにしていました。朝礼で一言あいさつをさせてもらうのですが、ほとんどいつも、直接仕事とはかかわりのない、僕の興味と関心にまかせた話をしゃべっていた記憶があります。その中で、この「発砲率」の話を紹介したことがありました。まったく全て、中井久夫のうけ売りです。
「発砲率」というのは、戦場で兵士が敵と対峙した時、何パーセントの兵士が実際に敵に対して銃を撃っているのかという数字だそうです。米軍の調査によると、発砲率は南北戦争から第2次大戦に至るまで、ほぼ変らず15%~ 20%だと書かれていました。米軍はこの発砲率の向上を目的に訓練方法を研究し改め、ベトナム戦争の時には発砲率95%を達成したそうです。結果、ベトナム戦争は大量のPTSD を帰還兵に発症させてしまいます。「発砲率」をむりやり引き上げることが、兵士たちの精神をズタズタに破綻させる結果を引き起していたのです。
こんな話を朝礼で聞かされていた皆さんは、週一回だとガマンして聞いてもらっていたのだと判ってはいたのですが、誰かに話さずにはおれなかった。そんな中井久夫と僕との交流の一端でした。
今年10月、例によって本屋の書棚を探索していたら、河出書房新社刊の「中井久夫との対話-生命、こころ、世界-」という本が目に止まりました。中井の大学時代の友人(故人)の息子たちが、中井久夫の思想について書いた本で、買って、読んで、今も考えています。中井久夫に僕は一体何を学んで、何に惹れてきたのだろうかと。
「心の生ぶ毛」という言葉
「最終講義」に中井久夫は「心の生ぶ毛」という言葉を記しています。薬物や外科治療のその先に、統合失調という病いを抱えた患者の心の生ぶ毛を大切にする治療をめざすのだと。正しくは「治す」ではなく「治ってもらう」のだと。一人の人間を丸ごと、その精神、肉体、過去から未来につながっている一体の生として、きちっと向き合うことが中井の精神医療の基礎にあったとするなら、それは、医療という領域を越えて、僕たちがめざしてきたより良き人間社会の創造にむけた社会運動にとっても、基本とすべき姿勢ではないのだろうか。そう考えてみると、精神医療とはまるで無縁だった僕のような人間が、中井久夫の治療論や科学論に強く惹きつけられたのは、人間を、まずはあるがままに受け止め、同じ空間で同じ時間を共有するところから治療にむかった中井の臨床姿勢に、自分自身の学生運動から能勢農場に至る活動を重ね合せてきたのだと思い至りました。
先にあげた「中井久夫との対話」の最後に、僕より20才ほど若い著者たちも、「私たちは中井久夫が取り組んだ精神医学の領域における仕事とその思想を、完成された体系のうちに閉じ込めてしまうのではなく、いまや社会全体という次元を上げたレベルで生じている問題の「治癒」と「回復」のための手引きとしても継承することができるはずである」と述べています。「ああ、やっぱりそういうふうに評価する人がいたんだ」とちょっとうれしい気分で読み終えました。
能勢農場をつくる人のつながり
時代は権力強化へと社会のあらゆる局面で進んでいます。強い者はより強く、声を荒げ断罪する。そうした変化に対抗するためには、同じ質で対抗するしかないという流れの連鎖がなんとなく感じられ、危機感が強くなってきます。しかし、能勢農場で仕事をし、昼食を食べ、夜、酒を飲んでいると、人と人との普通の会話と一緒に在る自然が、そんな気分を少し和らげてくれるのです。それは、現在、そこに生きている人たちだけではなくて、50年前からその場所で生き、働き、支えてくれた多くの人たちや、これから能勢にやってくる人たちに囲まれているからだと思います。
事業や政治が、そんなにふんわかした話で終らないことは十分に判っています。でも、その一番基礎のところには、やはり人を一人ひとり、まずは在るがままに受け入れて、隣りにすわる。真正面から向き合う、そうした譲らぬ姿勢が大切なのだと、中井久夫から僕が学んだことです。
(能勢食肉センター 津田 道夫)
やっと寒くなってきた。
1年のモヤモヤを杵に力を込めてバーン!とつき飛ばそう!!
これからは、私たちハム工場で働く者のことを、「シャルキュティエ」と呼んでください。ここ数年お肉の食べ方についてブームと呼べる現象が起きています。サシの入り方が絶対的だった牛肉に赤身肉の時代がやってきて熟成肉、ジビエ料理も一般的にとはまだいきませんが浸透してきています。羊肉も牛、豚、鶏に次ぐ第4のお肉としての定位置を獲得すべく「生ラム肉」と称し冷凍ラム肉の持つ臭みと硬さを感じさせない羊肉を見かけるようになってきています。そして「シャルキュトリー」。フランス語で食肉加工品全般のことを指すのですが、要するに味付け豚肉、内臓を乾燥させたり、薫煙したり、熟成、発酵もしくは、生で食べたりするハム、生ハム、ソーセージ、サラミ、テリーヌ、パテのことで、ただ単にフランス語でそれらお馴染み(?)の食べものを、広めようと業界主導のちょっときな臭いブーム到来ではあるのですが、ハムの作り手としては大歓迎で、これを機会にハム・ソーセージの新たな世界に出会えたなら幸いです。でもやっぱり日欧EPA合意の発行を視野にEU諸国が積極的に売り込みをかけているという現実が見え見えで、トランプ包囲網に便乗するのは、いささか不愉快なことですが「シャルキュティエ」という言葉につられて、どなたか一緒にハム工場で働きませんか。お待ちしています。
(ハム工場 佐藤 雄一)
(能勢食肉センター 中尾 清二)
(能勢食肉センター 佐田 章平)
(能勢食肉センター 井上 高嘉)
(能勢食肉センター 井上 佑磨)
能勢産直センターは設立から24年過ぎました。この間よつ葉の会員拡大を続けてきましたが、地元能勢町の会員数は年々減少しています。能勢町の人口減も要因の一つですが主な原因は能勢町の会員拡大をこの間ほとんどできなかったからです。その理由の一つは会社の経営方針として効率化と収益率を考えなければならなかったからです。それで採算の取れる地域に重点を置いて近隣地区、遠方地区のエリアまで配達地域を拡大して営業をしてきました。その結果売上げは年々増加しましたが、配達地域が遠くなればなるほど会員さんとの関係が希薄になってしまい、結果、物を売り買いするだけの関係になってしまいました。
遠方地でも採算を考えると1コース60件は最低配達しないと採算が取れません。地元の配達だと60件配達しても時間に余裕があって会員さんとも十分コミュ二ケーションもとれるのです。組織率が1%を超えてくるとなかなか会員数の増加は難しくなってきます。能勢産直の配達スタッフはこの間ほぼ同じ配送員が同じコースを配達しています。世の中では配達人員が不足しよつ葉の中でも人員不足になっています。会員減の理由に配達員の定着が難しく営業する余裕がない事も原因になっていると考えられます。人が定着している産直でも会員拡大は難しい時代に来ています。この問題は産直単体で考えるのは当たり前ですが、近隣の産直で協力して行きたいと考えています。
能勢産直は当期で25期目になりました。遠方地の配達エリアは北近畿産直に移動したので当期からは地元地域、能勢町、豊能町、猪名川町の地域を中心に拡大を進めます。今までの営業の方法では会員増は期待できないので新しい手法を考えたいと思います。能勢町で営業していた移動販売車しゅんの助は休眠状態でしたが不定期で再スタートしていきます。
(㈱能勢産直センター イム サンボン)
Copyright © 関西よつ葉連絡会 2005 All Rights Reserved.