ひこばえ通信
2010年10月号(第291号)


第16回:隠元さん−煎茶−箱膳

 ぼくが小さかった頃、もう50年以上も前の事ですが、わが家にも箱膳があって、父だけが箱膳で食べていました。箱膳というのは、40p四方で深さ20pぐらいの木の箱で、四角いお盆のようなフタがついています。中には茶碗や箸など一人分の食器が納められています。食事時になると食器を取り出して、ごはんと一汁一菜と香の物をよそい、箱の上にフタを裏返して置いてお膳として使います。父以外はみんなでちゃぶ台を囲んで食べましたが、ちゃぶ台が登場する前は家族一人ひとりに専用の箱膳があって、それで食べていたようです。
 この食事スタイルの原型を作ったのが、宇治の黄檗山万福寺の隠元さんです。このお寺では今も修行僧たちは箱膳で食べていると聞きます。僧たちはそれぞれが大きな釜や鍋から自分の食べる分だけをよそって食べ、決して食べ残すことはしません。食べ終わると、ここが大事なのですが、お茶で使った食器を順ぐりにすすいでいき、最後にそのお茶を飲み干し、箱膳に食器を納めフタをして、食事が終わります。
 隠元さんは禅宗(黄檗宗)といっしょにインゲン豆と煎茶を持って来てくれました。煎茶は単に健康食品としてだけでなく、箱膳を使ったこの食事スタイル(作法と言った方がいいかも知れません)にとってなくてはならないものです。所かわれば、少しばかり残すのが作法という食文化もあるのですから、食べものを残さないというのも、一つの作法であり、伝統とも言えます。また、湯のみではなく、ごはん茶碗でお茶を飲むのも、この作法の名残でしょう。
 お茶ですすぐだけで食器を洗うことになるのは、お茶に殺菌効果があるからですし、動物性のものを食べないからからです。植物性の油脂分は簡単に洗い落とせます。一般家庭でも、動物性のものは魚ぐらいしか食べなかった時代には、洗い場に石けんはありませんでした。魚の油は植物性の油といっしょですから、水で簡単に洗い落とせます。
 千利休さんが茶道を確立したのは戦国時代の末期ですから、隠元さんが煎茶を持ち込む前で、抹茶しかなかった時代です。わが国の禅宗の祖である栄西さんが持って来ました。利休さんと京都紫野の大徳寺とは深い縁があります。沢庵さんよりも少し前の時期です。大徳寺の山門の2階部分に利休さんの像が置かれることになり、これが利休さんの命とりになりました。山門の像が秀吉に難クセをつけられる発端となりました。
 奈良の唐招提寺の近くに尼辻(あまがつじ)というところがあります。この地名の語源は「甘い土」だったと言われています。奈良時代、まだ天台宗や真言宗すら伝わってなかった時代、唐の国から高僧の鑑真さんが招かれました。何度も船が難破しながらも、何とかたどり着いてくれた鑑真さんが、奈良に寺を建てるにあたって、そこかしこの土をなめてまわったそうです。現在、唐招提寺のあるあたりに至って、ここの土は甘いからここに寺を建てよとなったと言い伝えられています。その「甘い土」がなまって尼辻になったそうです。
 何故土をなめたのかは伝わっていません。すでに目が見えなくなっていたからかも知れませんが、ぼくは、食べものと深く関わっていたのではないかと思います。人間の食事の原型は類人猿の食事にあって、類人猿のうちゴリラには土を食べる習慣があります。またアフリカのタンザニアの人々もやはり土を食べるそうです。鑑真さんが弟子たちに土を食べさせたかどうかはわかりませんが、弟子たちに食事指導をしただろうことは十分に考えられます。「甘い土」というと栄養分の豊富な土を連想させますし、そういう土ならばいろんな野菜ができたのではないかと思います。