ひこばえ通信
2010年2月号(第283号)

事業仕分け雑感
(有)アグロス胡麻郷・橋本 昭

「農業と国」は歴史の中でどう変遷してきたのでしょう。そして今、「国」の「農業」に対する政策とは如何なものでしょう。
 通常の歴史において「農業と農村と農民」は都市に先立つ。つまり農村の過剰エネルギー(人口)が都市を形成し、更なる過剰が戦争を引き起こしてきたと思えます。農村が親で都市が子どもの関係であったと想像できます。
 今、その子どもが親のことを決めようとしているように見受けます。「オヤ」「コ」の関係もイマドキ的には見えにくくなっているので説明を加えれば、「育てる」ものと「育てられる」あるいは「与える」ものと「奪うもの」の関係と言えるでしょうか。相互関係というより一方的排出による「過剰エネルギー」のたまり場であるかもしれません。ならばこそ「農村」と「都市」の均衡政策とか、政策以前に自然に都市に流入したり田舎へ逃げたりの流動があり、自然な流量を超えるとき「政策課題」になるのではないでしょうか。つまり現代は「過剰の都市」と「過疎の田舎」の時代で、都市から田舎へ行きたい人があるけれども、行ける環境が不充分な状況なのではないしょうか。

▲橋本さんは「事業仕分け」第3ワーキンググループに参加
 なぜ行けないか。(1)生活に資する所得が得にくい、(2)利便性、(3)なじみ等があげられるでしょうか。利便性・なじみについては人によって好みとか許容力とか差があって巾があると思われますが、「収入」は移動を余儀なくされるほど重要です。それとキョウビ生活費は田舎の方が高くつく。生活空間が広く、人口密度が低い分〈水道・電気・ガス・下排水〉、「つとめ」や「買い物」のために必要とする〈車・ガソリン〉も距離が長い・不便を軸に都市より多くかかります。
 一方きれいな空気、たくさんのミドリ、広々とした空間等、不動産屋の広告よろしく美点・素晴らしさはあげられるが、人口は特殊な地域を除いて増えていないように見えます。直感的にも試行錯誤も含めて一元化出来ないとしても「所得の得づらさ」がかなり、効いていると思います。

農業・食糧・農村をヴィジョンの底辺に

 高度経済成長政策と並行して実施された「農業基本法」と「米余り」によって、農村は近郷の出来るところは住宅開発、工場誘致等、また車社会の出現と共に都市への通勤…兼業化が進んだ。そして一方では専作的産業化した農業を推進してきた。
 グローバリズムに基づく貿易の発展によって、工業生産物を中心とする貿易による利益で日本は“先進国”の仲間入りし「進んでいる」生活を手に入れたが、(1)資源無き国での加工と技術を中心とする工業であること。世界的に工業化が進み生活費の高い日本は人件費も高く後進の工業国に負けつつある。(2)国の基礎から積み上げたような近代化・工業化ではなく追いつけ追い越せ的な近代化であったこと。(3)敗戦後文化の断絶等社会・文化の上げ底現象が脆弱さを露呈している。(4)長い間、水稲農業文化を基礎とした国民性や精神が急速な文化転換によってひずみや摩擦を生み出し、ヴィジョンの見えない時が過ぎていっている。
 そんな中、『この国のかたち』を考えるとき、農業・食糧・農村をこれからの日本の最重要課題の一つと位置づけして国のヴィジョンの底辺とすべきと考えます。「くらし」「食糧」「文化」「コミュニティ」「我々の奔放なエロス」等多様な角度から我が国の近未来文化のあり方を見直し、ヴィジョンとすべきではないでしょうか?
 そしてなにより、このようなダイナミズムに沿った政策でないと事業そのものがムダとなると思われます。マンションのベランダ、街路樹の根元、河川敷での市民農園、あの風景の中に自然・農へのみんなの渇望が見えてくるのは偏見でしょうか。