ひこばえ通信
2008年9月号(第266号)

「三里塚物産」訪問レポート
空を舞台にした土を守る闘い

松原竜生(ひこばえ)

▲轟音のもとで農作業

 「三里塚闘争」。一定の年齢以下の人には、ほとんどなじみのない響きではないでしょうか?
 1966年、地元住民になんの事前説明もないまま、「新東京国際空港=成田空港」の建設予定地が三里塚地区に閣議決定されました。戦後入植した農家が多く、やっと開拓が軌道にのりこれからという時期であった同地区では、「今になって土地を奪うのか!」と当然のことながら大規模な反対運動が起き、それに共鳴し支援するため外部より参入した多くの人も巻き込み、現在までに9名の死者と多数の負傷者・逮捕者を出す泥沼の闘いと化しました。
 利用したことがあれば分かると思いますが、今でも車で乗り入れたり、空港直通のJRや京成線の駅を降りただけで、手荷物検査と身分証明書の提示が求められます。また空港自体、当初の予定から大幅に縮小された、いわば「未完成品」のまま操業が続けられており、常時2000人が警備に配置されている事実を含め、どうみても異常な状態だと言わざるをえません。

空港予定地内の工場でらっきょうなどを加工

 「三里塚物産」は、県外から反対運動に参加した当時の青年3人によって立ち上げられ、今年で30周年を迎えました。未だ用地買収に応じていない数軒の農家と同じく、工場は空港の工事区域内にあります。離発着の度に耳を塞ぎたくなるほど爆音が轟く場所に居続けることは、その存在自体が抵抗であるという他ありません。時が経つに連れ支援が収縮していく中、三里塚の地に根をおろし、らっきょう、しそ、落花生などを加工・販売することで、空港建設の被害者といえる地元農家と一体となって闘い、それにより長期にわたりこの問題について社会に発信し続けることができたといいます。
 91年から94年にかけて行われた反対派と国側によるシンポジウム・円卓会議で、国側は空港建設における手法が「民主主義的でなかった」と認め、今後は地元住民の合意なくして建設を進めないと約束しました。しかしその後の平行滑走路北側延伸事業や、それに伴う新誘導路の建設などについても、完成期限を決めその都合だけで先に進めようとしています。一連の経緯から「地元の合意なくしては公共事業を進めない」という「成田方式」が確立され、その後各国の空港建設事業に活かされたのも皮肉な話ですが、それが当の成田で守られていないのは更に皮肉な話です。

輸入食品依存の象徴 日本一の水揚げ港=成田


▲『ライフ』でもおなじみ
『無農薬らっきょう田舎漬』の加工作業

 三里塚における反対運動は、日本の農業切り捨て政策に抗う土を守る闘い。確かに、国際空港として操業を続けてきたという既成事実はあり、「今さら何を」と思われる方もあるかもしれません。夏休みや正月には海外旅行に向かう人の笑顔で空港は溢れます。ただ、「日本一の水揚げ港」と半ば自嘲的に呼ばれるように、成田空港を輸入食品に依存する日本の象徴的存在だとすれば、これだけ食に関する問題がとめどなく噴き出している現状をふまえ歴史を振り返るとき、どちらに理があったのかは自ずと見えてくるように思えます。